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どうして若者の不安は上の世代に伝わらないのか?

平行線の世代間ギャップー伝わらない若者の不安

 いま、日本で暮らしているあらゆる世代が世代間ギャップの話題が大好きである。世代が上の人間は、今の若者の精神の脆弱さを嘆き、若者は上の世代との経済格差を嘆いている。上の世代から若者の精神面への批判というのはどの時代もよくあるものなのかもしれない。しかし、若者が年金生活を送る老人も含んで経済格差を嘆く現状は、今の日本の一つの特徴なのかもしれない。

 定年を過ぎて再雇用という形態で働く父親とニュースを見ていると、長時間労働のニュースに違和感を感じている様子がよくわかる。「昔は土曜日も働いていた」「夜中まで働くこともしょっちゅうだったよ」。年収の低さを嘆く私に対しても「今のあなたくらいの時の年収はもっと低かったよ」とも。おそらく、これらの発言はサラリーマンとして働いてきた60代男性として、特段に外れた意見ではないのではないのだとは思う。 

 それに対して30代の私は、今どきの若者らしく色々と反論をしたくなる。「PCもなく単純作業や待機も多かった昔と異なり、今は労働時間のうち多くの時間で高い生産力を求められている。だから長時間労働のストレスは向上している」「今の私たちは、社会保障費に取られるお金が多く、その上でこれから、親世代ほど給与が上がる見込みがないんだ」。 

 父親は比較的寛容な方だ。でも、この議論はいつも平行線のままうやむになる。労働に見合った賃金や待遇が得られない悲しさ、頑張っているのに将来報われない不安。私の気持ちは父親に否定されるというよりも、全く父親に伝わらない。私は父親に怒っているのではない。むしろ、一体この伝わらなさはなんなのであろうとここ数年不思議に思っていた。

昔の人の価値観を知って

 この疑問に対して、自分なりに少し糸口が見えてきたのでブログを書いている。きっかけとなったのは、祖父母に話を聞いたことである。話題は祖父母の若いころから始まり、祖父母のさらに上の世代の親族にまで及んだ。昔の話を聞いてかなり驚かされたのが、私の感覚では昔は「人がバンバン死ぬ」状態であったのだ。これは何も戦争体験だけを指しているのではない。祖父母のさらに上の世代の親族は、津波で家族が全員死亡していた(生き残ったのが私の祖先)。祖父は戦後に友達と飲んで歩いていたら、友人が目の前で陥没していた穴に落ちて死んだ。祖父母は兄弟がたくさんいるが、同時に死んだ兄弟も複数名いる。災害も事故も病気も縁遠く暮らしている私は、祖父母が淡々とこれらを話すのを聞いて、死に対する感覚が違うことが気づいた。

 そこから翻り、私は彼らの自分の人生に対する感覚が異なることも感じた。上の世代は「自分の人生を深く考えずに決断している」ということである。仕事や結婚も親族などの周囲の勧めで決定し、その決定方法にまったく不満は持っていない。親族も自分たちのツテを紹介しているだけであり、就職や結婚をする当人のことをよく知った上で紹介をしているわけではないようであった。当人たちも紹介をしてもらった人たちへの感謝と義理から、その職場や家庭を大事にしたようだ。彼らの生き方を現代で行えば「なりゆきまかせ」としか言われないであろう。こんな話を聞いていると私の就職時の「自分の思い」や婚活で求められる「自分の価値観」をひねり出したこととはまるで対極である。

 この「死が身近であること」と「人生について深く考えない」ことは私にとって大きな衝撃であった。そして、おそらくこの二つは関係が深いとも考えるようになった。視が身近であう環境であれば、自分自身も常に死ぬ可能性があり、将来を期待して準備をすることは意味が感じられないからである。一方で、私たちは自分たちの将来を期待し準備することが奨励され、価値観として染み付いている。「命の価値は地球より重い」という言葉は良く聞くが、私たちの人生の価値も上の世代と比較してどんどん重くなってきているのであろう。

 これは私と祖父母の価値観が異なるという個人的な問題ではなく、人類史上大きな流れなのではないかとも考えている。サピエンス全史を読むと、個人が尊重されることがいかに現代的な感覚であるかよくわかる。そして、命の価値が急激に高まった社会の一つが現代日本なのではないかとも思う。

若者の不安が伝わらない心理的背景と人生の価値の違い

 祖父母の話を聞いていると、上の世代も、私たちと同様の労働環境に対する不満や未来に対する不安はあったことは良くわかる。むしろ社会が豊かでなかった故にそれらは今以上にひどかったとも言える。ただし、人生の価値が軽かったので、主観的には不安感が低かった。これが、若者の不安が上の世代に伝わらない一つの心理的な原因ではないかと思う。父親にしても、若いときには長時間労働で疲れ、かといって将来(娘の私が見ている現在の父親の生活状況)に対する当てもなかったことはよくわかる。

 もちろん、社会が経済成長をしているときを経験したときには労働に見合った賃金を得られているという感覚もあったということは言える。だからこそ、私自身は若者世代として社会サービスの社会的分配も変えることは望んでいるし、労働環境の改善は望んでいる。ただし、この心理的な背景も念頭に置かないと議論はできないのであろうとも思う。

これから考えたいこと

 現時点では特に上記の発見以上の結論は、私の中に存在しない。ただし、「昔も大変だった。不安もあったが、がんばって働いた」という言説が伝わらない背景に、人生の価値が重くなり、自分を大事にすることに慣れすぎた今の若者の価値観があるのではないか私にとっては大きな発見であった。社会として豊かになったが故に生まれてきた私たち若者の価値観は、一方で豊かさを保てなくなりそうな社会とどのように折り合いをつけていくべきなのであろうか。少しこれから考えて生きたい。

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

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