蠟について
ロウソクすらも片仮名での変換が早く出てしまうので、改めて蠟と入力してみて字面に戸惑う。それほど私には蠟と縁が深くない。そんな私が、なぜ私が蠟について考えたかというと、いくつかの文章の中の例えで、蠟が出てきたのだ。
須賀敦子「霧のむこうに住みたい」p20
(アスパラガスについて)一瞬、蠟をひいたような、うっすらと紫のまじった緑の穂先
いとうせいこう「自己流園芸ベランダ派」にも植物の例えで、何回か蠟が出される。 どちらの著作も素晴らしく感動したのだが、実は蝋についての表現はあまり理解ができなかった。理由は簡単であり、蠟をあまり見たことがないからである。果たして、これは色の鮮やかさを伝えたいのか、質感であれば柔らかいこと、または脆いことを伝えたいのだろうか、いやはや硬いものの一例なのだろうか。もしくは造形の繊細さなのか。蝋についてはっきりとイメージがわかない以上、どの要素を抽出してどのように伝えたいのかがわからないのである。
理科の実験や仏壇で見る蝋燭とはこれらは乖離があるように感じたので、これらを読んで真っ先に思うのは蝋梅であった。とは言っても、実は昔に母から教わった「蝋細工に見えるから蝋梅」ということも、同様に理解ができていないのである。黄色くて香りがいい蝋梅と著者の伝えたいことの共通点は意外と少なく、これも余り参考にはならなかった。
今回、短い期間に蠟についての比喩に触れる機会が多く、改めて調べようと思い立った。しかし、1人暮らしの家に日本語の辞書があるはずもなく、手元のスマホで調べるはめとなった。どうやらいくつかのサイトの記載を見ると、蠟は脂を持った質感を示すらしい。なるほど、鮮やかな植物がつやつやと輝く様子をこのように捉えたのだろう。
しかし、これは説明されなければわからなかった。まず第一に思ったのはジェネレーションギャップである。蠟といえば蝋燭であろう。家に仏壇もなく、ガスで火を点ける私たちの生活で蝋燭をみることはない。最後に見たのは祖母の家にある仏壇であり、火を扱うことが怖い私は家族にそれを任せた。自身で触れたのは高校の理科の実験が最後かもしれない。一方で、昔は蝋燭以外にも、蠟で手紙の封をしたのかもしれない、蠟で何かを塞いだのだろう。蝋細工というものもより身近だったかもしれない。
しかし、ネットを調べるうち、weblio内の日英・英日専門用語辞書 日中韓辭典研究所には以下のような英単語が記載されているのを発見した。
ceraceous
ろう様の,蝋のような
これは私に2つ目の仮説をもたらした。これは、ジェネレーションギャップではなく、国によるカルチャーギャップではないか。すなはち、蠟のようなという慣用句は外国語を訳したものであり、日本に馴染みのないものを用いた表現であるということだ。例えば、全ての道はローマに通じるのような。
これは果たしてどちらであろう。いずれにせよ、文章表現でしか見ない慣用句である。馴染みのない言葉となって行くのは今後も変わらないであろうから、今度実家に帰った時に父に聞いてみよう。