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読書:不愉快な本の続編(絲山秋子)

 読んだ本の記録も兼ねて書いているこのブログでは今まで、本を読んだ当日にブログを上げていた。ところが、初めて小説について感想を書こうとして、早2日経ってしまった。

 

 本書はカミュの「異邦人」の様だという紹介がされていることが多い。「異邦人」について記憶がもうない私にはむしろ、主人公の一人語りで進められていき、かつその主人公が不安定である点で「ライ麦畑でつかまえて」を想起させた。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公が大人と子供のはざまにあるが故に、言動が不安定であるとするならば、本著の主人公は現と虚構を行ったり来たりする。また、最後に私たちからの評価を全て拒否する終わりもとても似ていた。

 

 本書の主人公が子ども時代を思い出すときに弟との話題は「現在は過去の一部なのか未来なのか」という点である。現在は過ぎた傍から過去になるが、次々と未来の一瞬たちが現在としてやってくる。その、過去は事実として残るかのように思われるが、各々のフィルターを通した上で記憶の中で改変されそれはもう現実ではない。一方で、未来についてはまだ事実としても存在していない。私たちはこの現実世界の確かさを前提として人と生活を営むが、この主人公にとっては現実もまた虚構である。一方で存在はしていない想いや人の内面といったものを人一倍感じ取りながらその絶え間なく変化するそれらを信頼はできないという点では、この主人公にとって現と虚構はどちらも不安定なものである。現と虚構どちらに身を委ねていいのかわからない主人公は言葉を通じてそれらに形を与えようとするが、現も虚構もぐねぐねと変わり続けるが故に、現に立脚している周囲の人々から主人公はうそつきと捉えられる。多くの人は、現の世界から虚構を眺めている。複雑な関係性を、ある値を固定して連立方程式を使って変数を減らすようなものだ。それができずに、現と虚構を行ったり来たりする主人公は、土地・家庭・職に定着できない「たびのもの」人生そのものである。

 

 最終的に主人公は現の世界から完全に飛び出してしまうが、その先の世界は不変の世界であった。現と虚構の関係性は現在と過去・未来の関係とも似ている。幸せな恋愛に落ちた男女が口にする「この一瞬が永遠だ」という言葉がある。過去も未来のあらゆる出来事を凌駕する絶対的な幸福感を示したものであるが、本書の主人公は1人で過去や未来のできごとすべてに勝る衝撃的な一瞬を迎えてしまう。「時がとまるほどの衝撃」をまさに比喩でなく体感したとき、それは現在でありながら未来から提供されるはずの現在も止まってしまう新たな世界であったのである。

 

 多くの小説世界は主人公の現の世界での成功や失敗、内面世界という虚構での成長や堕落を描く。それが故に、これらを超越した本書は衝撃的である。しかし、現の世界を離れられない私たちにとって、これは絶望的な小説ではない。著者の絲山さんがたびのものを愛してきたのを知っているからである。「海の仙人」という小説に出てくる「ファンタジー」という愛すべき自称神様がいるが、もしかしたらファンタジーも現を捨ててしまった何かなのかもしれない。

 

 いま頑張って私の捉えた小説世界をなんとか言語化したが、本書の怖ろしい点はこのような小賢しいことを超え、とにかく小説として引き込まれることである。絲山さんの小説を読んでいて、いつも感じるが、なぜ見たこともない地域の景色や匂いを私たちに正確に伝えてくれ、しかもそれが長くなりすぎないのであろうか。昔、遠藤周作の「沈黙」を読んで、植物の黒々とした描写に驚き、長崎に出かけたことがある。事実、南国の日差しの中で東京では緑に見える植物が全く違うものに見えた。絲山さんの本を読んでも、同様にたくさん旅行に行きたくなる。

 

 とりわけ、絲山さんの小説を読むと海に行きたくなる。私は海と縁がある生活を送ったことはない。それでも、短歌を作るうちに人と人の分かり合えなさの象徴としてたくさん海が出てきたことを不思議に思っている。人と人は空気中では触れ合う時にその触れ合った面やを強く意識する。しかし、水の中で触れ合うと私たちの間にあるたくさんの水にも意識が行く。結びつきや絆という概念を全く信じない人はいないであろうが、人と人とはとてもバラバラな存在なのだ。絲山さんの小説世界にも人がそれぞれ個別の孤独を持った者として描かれている。しかし、不思議と絲山さんの海と孤独な人たちの小説を読んだ後、私の孤独感は少し癒され、海に行きたくなるのだ。

 

 小説というものを読みながらいつも思う。なぜ、私達は虚構の物語を人生に必要とするのだろう。もしかして、小説とは著者ともに、主人公とともに物語の着地点を探す旅なのかもしれない。実際に、現実の話も同様にまたはもっとスリリングで引き込まれることも多く、知識を得られる場合もある。しかし、私たちは事実を知った時には必ずそのスリリングさを楽しむだけでは終われず、その事実に反することは何も思えない。寧ろ、事実を正確にとらえた上で評価を行うのである。一方で、虚構では物語の着地点を探すことだけに集中できる。そして、その着地点は無限の可能性があるのだ。本著のうそつきな主人公も、悲惨にのたれ死ぬわけでもなく、ある日何かに出会って改心するわけでもない。これ自体はハッピーエンドでも何か教訓を与えるものでもない。それでもそれは、閉塞した現実につかれた時の束の間の新鮮な空気のようなものである。

 

 このブログは何かを人におすすめするためでもなく、小説を評価するためのものでもなく、自分の感動を素直に言葉に表現する練習するために感想文を書いているだけである。今までは実学書等が多かったが、小説は難しく、上に書いたような小説の偉大さを知ることになった。最後に、私にとってこの小説は「ライ麦畑でつかまえて」の主人公はいい本の定義としてあげた「著者が自分に手紙を書いてくれているように感じる」本であったことを記しておきたい。

 

 

不愉快な本の続編 (新潮文庫)

不愉快な本の続編 (新潮文庫)