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sundy1987’s blog

1987年生まれ。コミュニケーションの幅を広げたくって自己表現を探り中。

ブログ: 悩みを言語化するということ

 私は悩んでいることを周囲にうまく伝えることができずに、仕事で大きな挫折を迎えてしまった。最初はその挫折感に対する感情を処理するのでいっぱいいっぱいであったが、ようやくと色々と考えることができてきた。

sundy1987.hatenadiary.jp

 

仕事での気づき~考えられない~

 おそらく、どの職場においても悩みを言語化できない人がいる。ずっと不思議だった。そういう人に対して困ったこともある。対して、私はできる…はずだった。でも、最近は仕事で挫折しその辺りから最近、うまく悩みを言語化できないし、質問に対して上手く回答ができない。多分、考えることがまとまっていないのだ。 

 

 職場でもどこでも話自体は面白がってもらえ、いい人という評価を得ることができる。私は、そのとき一瞬の感情や思いを切り取ることは得意なのだ。それを膨らまして、人に聞かせてそれなりに面白いと思ってもらう程度までまとめることもできる。ただ、それらの思いを統合させるには、考えるステップがいる。私にはそれができていなかった。考えに昇華されない思いだけを職場で話しても、それは思いつきでものを言う人間に過ぎず、仕事において信頼を得られることはない。

 

 しかし、「仕事で挫折」して以来と書いたが、回答できなくなっていたのはそのずっと前からでもある。また、考えがまとまっていないと書いたが、そこまでは気づけても考え方がわからない…という感触もある。薄々は気づいていたが、しかし、でも辛うじて仕事も会話もできている。一体、私は何が出来て出来ていないのかもよくわからなくなっていた。さらに、恥ずかしながら、挫折に対するあふれ出る感情を処理することが本当に大変であった。それが、ブログや短歌を書きためてようやく腹落ちしてきた。

 

短歌での気づき~なぜ、考えられないのか~

 短歌を作りながら、思いがあっても考えることできないという事態以上に怖ろしい事態に自分が陥っていたことに気付いたのである。それは、ーそもそも自分の思いすらうまく感知できないーということである。

短歌での変化~どうして、自分の思いを感知できないのか~

 短歌やブログをたくさん書いていると、殆どのもののクオリティーは低い。感受性や比喩力の足りなさは当たり前である。怖ろしかったのは、自分自身の気持ちを正確に素直に表現するそのことだけでも殆どうまく行かない。どうしても、かっこいい言葉を使いたくなってしまったり、小賢しい工夫をしたくなる。また、自分自身のしょうもない部分はついつい避けそうになる。できた短歌は自分の思いを表したものではない、あこがれの自分が詠むであろう歌なのである。例ば、下の短歌はまさしくそのようなものである。私はこのとき、自分がどう見えるかなんかに構えないくらい、辛い気持ちでいっぱいだったのだ。前半のセリフも具体的に言われたものでもない。

 

sundy1987.hatenadiary.jp

 

 私は、本当に感情として溢れるものを抱えていたはずなのに、理想の自分を演じてしまうということでそれを自分自身で流そうとしてしまっていたのだ。つまり、「自分の思いを統合させて考えまで昇華できていない」という問題に併せて、私は「自分の思いすらうまく気づけていなかった」のである。さきほど、「考え方がわからない」と書いた。おそらく、自分で考えるということは、自分の感受性を通じて事実をどのように受け止めるのかということがきっかけにある。私は気づいたらその感受性をゆがめてしまっていた。

 しかし、短歌という形で何回も気持ちを吐き出すことで、それは徐々に変わってきた。感情を処理できないことに気づき、それをまっすぐに私は表現することができたのである。

 

sundy1987.hatenadiary.jp

 

どうして私は演じてしまうのか

 私が演じる自分に気付けたとき、同時にそれは初めての体験ではないことに気付いた。人から仕事は楽しいかと聞かれ、「楽しいです」と答えてしまったことがあった、悩んでいることはないかと聞かれ、「大丈夫です」と答えてしまったこともある。多分、私は「人に努力を見せずに人より成果を出す人物」にあこがれているのだ。この様な側面は多かれ少なかれ誰にでもあるものであろう。しかし、私にとってこれが大きな問題となってしまったのは、人とあまりコミュニケーションを取ってこなかったからなのだと思っている。人とコミュニケーションを取らないで一人で作業をしていて、私は自分の立ち位置を正確に知る機会を失って、理想を膨らませてしまった。

 理想の自分で挑んだ面接で私は念願の職場に入ることができた。しかし、そこには自分の理想と全く異なる自分がいた。全く異なるダサい自分を受け止める努力ではなく、理想の自分像を磨く努力をしていた私の愚かさにいまはようやく気付くことができた。

 

今後

 ここから、どうやればいいのだろう。ちゃんと考えることはできるだろうか。考えるからには、それを周囲にきちんと認められ、なにか世の中の薬にたってほしい気持ちもある。しかし、その心配をすることは今の私には不相応である。嫌われても、うまく行かなくても、私なりにまずは思いをきちんと伝えるところから始めようと考えている。