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How to connect the world? How to express myself?

ブログ:短歌のどうしてとどうやって

 前、twitterを見ていて短歌入門者に何が必要かのアンケートがあった。短歌を作り始めて、上手くなりたいなぁという欲が出てきた私は「色んな歌を作る人のインタビューが読みたいなぁ」と思った。これは、上手くなりたいというテクニックを知るよりも、自分がどういう方向に上手くなりたいかを知りたいと考えたからだ。

 

いま、私はインタビューできるような関係の人はいない。しかし、いつかチャンスが来たときに、どういうことを聞きたいのか整理するために、私は自分がどうして短歌を作ってるのか、どうやって作っているのかを整理しようと思う。

 

◼︎どうして

①どうして自己表現するのか

 私は自己表現が昔から嫌いだった。絵も歌も全く上手くなかった。中でも最も苦手だった表現は文章で、書けないし書きたくもなかった。理由は明快である。求められる「子供らしさ」、「女の子らしさ」に沿うことが気持ち悪かったのである。昔、詩を書かされて適当に「チューリップが春を呼んでいる」という心にもないことを書いて褒められた。もうこういうことはしたくないなと思った。

 

 とはいえ、大人の意に沿う自己表現は不愉快だっただけで、自分の想いを思い切り出したいという気持ちはあった。「歌か絵が上手かったらよかったな」なんてよく考えていたものである。もちろん思うだけで上手くなるわけはない。気づけば、私は芸術のみならず、友達付き合いにおいても自分を相手に伝えることすら苦手になっていた。

 

 しかし、30手前になり仕事もプライベートも上手く行かなくなったときに、あ、自分の伝え下手が招いたことだと気付いた。占い師に言われた言葉が決定的であった。仕事を相談したところ、「あなたはスキルに悩んでいるのではなく、感情を吐き出しきれてないことに悩んでる」と言われたのである。

 

 そこから、まずはブログを書こうと思った。誰にも見えないノートに書いててもどうせサボるし、愚痴レベルの感情しか書けないだろうし、どうせカッコつけて「また頑張ろう」みたいに書きだしそうだったからだ。しかし、びっくりするほど書けなかった。幼いし、ふわふわした「疲れた〜」みたいなことしか書けない。そんな、軽い愚痴レベルでなく悩んでるのに、こんなことしか言えない。ノートだろうがブログだろうが、私の自己表現はそんなレベルだったのである。

 

 これは、公私ともに上手く行かないわと自分で納得した。なんのしがらみもないオンラインでこの程度しか自分のことを書けないなら、周りに自分を理解してもらうことなんて到底不可能だからだ。これらを見て、毎日何らかしら書いていこうと思った。

 

 とは言いつつも、驚くほど書けないので、制約を課さずとにかく何でも書くとした。その中で、サボる?ための一手段が短歌だった。

 

②どうして短歌なのか

 

 自己表現が嫌いだと言いながら、一回だけ表現してしまったことがある。かつて大失恋したときに、自由律俳句の本に感動し、携帯のメモ帳に打ち込んでいたのだ。しかし、これは続かなかった。自由はすごく難しいのである。辛いときは作れたが、辛くないと作れなかった。

 

 思うに表現とは「A:表現のセンス(言葉選び、発想の飛躍)」×「B:感受性(目の付け所)」×「C:体験のオリジナリティ」みたいな能力が総合的に問われる。私はAがほとんど無い…。Cとそれに付随したBくらいなのだ…。すごく辛くて吐き出すほど気持ちが溢れていれば、それをそのまま言葉にすればいいのだけれど、そうでないと表現として完成させられなかった。

 

 最初、ブログに自由律俳句を載せようとしたが、すぐ生き詰まるなとおもった。そこで、形式の定まった短歌ならできるかもと思い、取り組み始めた。何でもいいから57577に当てはめれば、とりあえず完成と言えるからである。私に必要な表現は質より量であった。とりあえずこれを続けようと思った。

 

放哉と山頭火: 死を生きる (ちくま文庫)

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③どうやって作るのか

 

 今は、1日2首を目標にブログとtwitterに上げている。また、今の30前の悩みをテーマに連作を作りたいので、そのテーマに沿ったものは、ノートに書き溜めてある。

 

 基本的には自分の気持ちを吐き出す歌が多い。なので、短歌…というよりtwitterのつぶやきに近い。目指すところは質より量であるし、思ったことを書くだけなので、書くことなければ書くことないという歌を作るまでである。 あと、短歌パラダイスという本を読んで題詠って面白いなと思い、時間があればうたの日にも投稿する。

 

作るのは殆ど携帯のブログアプリの中でである。自分の中のふとした感情の動きがあったときに、その写真を撮るイメージだ。言葉のセンスが無いので、上の句だけできたとか、下の句だけできたということは無い。宮沢賢治の心象スケッチという言葉があるが、まさしくそれである。日付と連動してそれを残すことが私には大切なので、作りだめも無い。 歌に落とせないときは、その旨を書いておく。

 

④目指していること

 

 世の中にはたくさんの芸術家がいる。私が1番馴染みの深い世界ではJPOPと日本文学がある。その中で何を表現することを目的とするかによって、芸術は3種類に大きく分けられるとざっくり考えた。(どれが偉いとかでは無い!)

 

 Aグループは、若いうちから一貫した世界観がある人たちである。この人たちに掛かれば、恋愛ソングですら諸行無常とか大きなものを歌える。表現は多少変わろうとも同じテーマをずっと本人は追いかけているだけなのだ。(スピッツとか中島みゆきとか)

 Bは自分の体験を表現する人たちである。この中でも、詩的表現を使う人たちとそうではなく、特定のファン(自分と似た人)をターゲットに選びわかりやすく表す人がいる。

(ロックは前者に入る人が多いかも。後者は浜崎あゆみとか西野カナとか恋愛ソングに多いかもしれない)

Cは自己表現としてというより、自己実現で芸術をしている人たちである。そのジャンルの中の定型的な表現を使うことが多い。

(ジャニーズとかダンスミュージックとか)

 

 私はいまのところ、B-2目指そうと思っている。言葉のセンスは無いが、それを下手に伸ばそうとすると自分の心の揺れ動きを描写する努力が削がれると思うからだ。言葉のセンスにこだわると、B-1ではなくCに行ってしまうと思う。それは私の自己表現という目的から逸れてしまう。

 

⑤努力してること

 

・うたの日で評をつけること

・投稿短歌の前には試行錯誤をブログに残す

・雑誌に載ってる短歌を書き写す

 

⑥どうしてこれからも作るのか?

 

 ブログを書き始めて、表現力のなさに驚いた。しかし、短歌を数多く作って気付いたのは、表現するスキルがないのではなく、表現したいものが意外とわからないということだった。自分の心がふと揺れ動いたときに、それは喜怒哀楽のどれなのであろうか?喜びの場合、ケーキを食べる喜びと、昔からの友達と話す喜びは異なるのか?といったことがさっぱりわからないのである。

 

 わからない理由は表されていなかったからである。おそらく、私は今の悩んでいる状態はいつか抜け出すであろう。しかし、それでも短歌は細々続けようと思う。上手くなったり、褒められたい気持ちがないわけではないが、私にとって短歌は心象スケッチなのだ。

 

 自分がいつどこでどのような状態だったのかを記録に残し、また、自分でそれを認めるために私は短歌を続ける。行く先を示すような便利な機能はないけれど、自分の心の場所を正確に捉えるための地図みたいなものだ。