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How to connect the world? How to express myself?

テレビ:スーパープレゼンテーション( Our campaign to ban plastic bags in Bali )

 「スーパープレゼンテーション」という番組がある。「TED」でのプレゼンテーションと前後に簡単な解説が入る構成だ。

 

 今回見たのはバリ島でゴミ袋削減のプロジェクトを行った小学生の姉妹だった。プロジェクトの内容もさることながら、プレゼンテーションもすごく上手なのだ。創造性があってすごく感じもいい!たぶん、これが本当のグローバル基準でのエリートなのだと思わされた。

 

 後からの解説でも同様の事が述べられていた。解説を行うマサチューセッツ工科大の教員2人は今回のプレゼンターを「優等生」であると表現していた。自分達の過去を振り返り、同じ思春期頃の自分達を「反体制的でパンク」であったと言っていたのとは真逆だ。この背景には、かつては体制に疑問を抱いても、体制に距離が遠くてパンクにならざるをえなかったのがSNS等で距離感が変化しているのではと考察されていた。

 

 この考えはすごく面白いと思った。体制に疑問を抱いたのちの行動は、体制との距離感に応じて変わる可能性がある。確かに、政治活動以外にも公共にインパクトを与えられる、NPOやボランティアなどの社会活動は着目を浴びている。体制に疑問を感じたら、個人でもできることはどんどん増えているのだ。プレゼンターも、子供でもできることがあるのだとアピールをしていた。

 

 しかし、単純に若い人たちが体制との距離が近づき単純な反体制が減っていくわけではないであろう。おそらく、子供でも体制に距離が近い人がいる一方で、大人でも誰でも距離が遠いままの人が出てくるのではないか。つまり、以前は思春期の子供は距離が遠いから反体制だったのが、大人になるにつれ変化をしていた。それが、今後は個人の能力と状況によるところが増えていくのだ。これは、年齢だけでなく、国籍、性別、学歴など全ての既成の枠組みについつ同様なのであろう。

 

 この超個人主義的な状況は何を生み出すであろうか。

 

 流動的であることを常に前向きに捉えれば、未来は明るいえる。一方で、固定的な差をうめば、世代間ギャップ以上の社会のギャップを生むだろう。既存の属性と異なり、どのように近づければいいのかの正解がわからないのであるから。

 

 また、社会全体への影響力を与える機会だけでなく深度も多様性を増す。つまり、上には上がいる状況が続くのだ。果たして、自分にとってその影響を及ぼすことがどれほど大切なのかを見極める力が必要だ。諦めるべき状況が誰にでも来る。

 

 既存の枠組みが意味をなさなくなる超個人社会においては、自分の内なる流動性を認識して現状把握をきちんと行い、かつ、環境の流動性に対してポジティブになることが大事である…が非常に難しい。

 

まず、社会的に論じれば、教育を中心に平等な機会が与えられる制度が必要である。平等が、性年齢国籍に関わらないようなものであることが大事だ。そのうえで、諦めた人すら許容する多様な価値観が認められる社会であることも大事だ。

 個人としては、流動性を楽しむことおよび自分が真に求めていることを自覚できることが重要である。ここについては、一体どのようにそれが実現されるのかはわからない。

 

 所与の運命を超えられる可能性があるならば、社会という方舟を捨てる選択をしても構わないと思えるほどに私は超個人主義である。競争から降りる自由と、競争機会の平等の両立が果たされるのであれば、これに賛成する人は増えるのではないだろうか。

http://www.nhk.or.jp/superpresentation/pastprogram/160714.html